2010年12月2日木曜日

(第11号)『教会のキリスト教とイエスのキリスト教』 2010.12.2


「教会のキリスト教」と「イエスのキリスト教」の違いというテーマは、キリスト教社会でも大きな問題となってきましたが、この問題は、イエスの死後、約二千年にわたって、繰り返し繰り返し、歴史の表面に出てきた問題でした。
(それだけ、人々の苦しみの原因になったテーマでもあったと言えます。)

 歴史の中の直近でそれを著したのは、あの有名な
ドストエフスキー作
『カラマーゾフの兄弟』第5編第5章の「大審問官」です。
幸福の科学の今日的視点で見ても、非常に示唆に富む論点を多々含んでいますので、最初に少し、それを見てみたいと思います。



イエスよ、出てくるな!



 時は16世紀のスペイン。異端審問で100人単位の「異教徒」が"火あぶり"にされ、人々が恐怖と悲しみの中で、主の再臨を待ちわびていたセビリアの町に、
それを哀れんだイエスが、生前と同じ姿で、忽然(こつぜん)と姿を現しました。
興奮で人垣をつくる大衆の前で、イエスは、生前と同じく、
その衣に触れた人の病を癒し、
盲目の老人の眼(まなこ)を目明きにし、
葬列の棺(ひつぎ)の中で、夭逝(ようせい)して永眠していた娘に対し、
「少女よ、われ汝に言う、
"起きよ!"
と叫んで、死から甦え(よみがえ)らせました。

その時、前日まで異端審問の"火あぶり"にいそしんでいた大教会の大審問官(大僧正)が、そばを通りかかり、その奇跡に眉をひそめながら、
「この男を密かに逮捕せよ」
と命じ、イエスを投獄したのです。
その後、大審問官は、たった一人で牢屋を訪れ、イエスの審問を始めるのですが、そこで大審問官が言ったことは、大要以下のとおりでした。

一、おまえが本物のイエスであること位、私にはわかっている。
二、だから、こんなところに来てもらっては困るのだ。
三、なぜおまえは、私達の仕事の邪魔をしに来たのだ?
四、おまえには、1500年前に、聖書の中で言ったこと以外に、何ひとつ付け加える権利な   ど、与えられていないのだ。
五、そして、それこそが、教会制度の最も根本的な本質だということが、わかっていないのか。

そのように述べた上で、最後に大審問官は、決定的なひと言を言います。
「我々の仕事仲間は、おまえではなく、あいつ(サタン〔ルシフェル〕)なのだよ」と。

 確かに、キリスト教においても、「極端な異端排除(火あぶりなど)をした教皇のところには、ルシフェルが入っていた」と、総裁もおっしゃっています。(注)



ハワイで主が、おっしゃったこと



 これを見ると、幸福の科学の教えが広がると、教会が今のままの考え方をしている限り、
自然と「キリスト教の教会制度が滅びることになる」(ミカエルの考え方)
ということの意味が、よくわかると思います。
「二千年前にイエスが言ったこと」
以外は、"現代のイエス""現代のイエスの父"は、言ってはならないわけですから、
それは、

「現代人を救済してはならない」
と主張しているに等しく、
そのように、

「自ら(ミカエル)がつくった制度や立場を守るためには、現代及び将来の人類の救済を犠牲にしてもかまわない」
というのであれば、さる霊人も主張しておりましたが、

「この戦い(キリスト教、ユダヤ教らも飲み込んでいく)は、早晩避けて通れない」ものとなるのであり、
「新しい宗教を開くとは、そういうことである」ということになるわけです。

 ハワイの"Be Positive"の御講演の中で、主は、
"People of the world really need a savior to save from religions."
(現代の人々は、なんと、宗教から人々を救い出す救世主を必要としている)
と、おっしゃいました。
ここでおっしゃっている「宗教」(religion)の意味は、キリスト教に関する限り、以下で述べるように、その前後の文脈から見て、
主として「教会」(church)のことを意味している、つまり、
「現代の救世主には、教会から人々を救い出さなければならない仕事がある」
ということをおっしゃっておられることは、明らかです。

"Churches teach you many times that you are a sinner so "repent",but there are no original sins".
(教会は繰り返し、「あなたがたは罪人であるから、悔い改めなさい」と教え込んできたが、しかし、人間に「原罪」などというものはないのです。)
"So the teachings of the church are mistakes. They are different teachings."
(だから、教会の教えには間違いがある。それは違う「教え」なのだ。)
 
教会は人々に「罪びとである」(原罪論)と教え、それを根拠に、人々を「戒律」で縛ってきました。このような教会のキリスト教の流れが、歴史の中で多くの人々を苦しめ、「間違いを含んでいた」のは、残念ながら事実であったと言わざるを得ないと思います。
そして、

「このような"教会のキリスト教"をつくってきたのが、一体誰であったのか]
ということが、今、段々と明らかにされつつあるのだと思います。


(注)『死んでから困らない生き方』(大川隆法/幸福の科学出版)P148





(注)『死んでから困らない生き方』(大川隆法/幸福の科学出版)P148

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