2011年5月5日木曜日

(第22号)『エローヒムとは何か(序論)』

(本稿は、2011年4月27日北海道正心館七の日講話の内容をまとめたものです。)

 皆様こんにちは。今日も七の日感謝祭にご参拝いただき、ありがとうございます。
今日は、大きめのタイトルをつけました。今回は久し振りに「英語版ヘラトリ」も出そうと思っていますので、ご期待ください。
 先般の「全世界伝道交流会(支部長交流会)」にて、国際局長から、
「2016年までに、NYのヤンキー・スタジアムで大講演会を行う」と発表がありました。(拍手)
今日の内容は、そのあたりもにらんだ内容になります。

 今日は、英語・日本語対照(バイリンガル)の聖書も持ってきました。今後、先生の御説法の中で、聖書からの引用は、益々増えていくと思います。皆さんも少し知っておいた方がよろしいかと思います。
今日はそういう意味で、本日のテーマに沿った聖書の話の中でも、特に、学んでおくにふさわしい箇所を選んで、お話させていただこうと思います。
「聖書」や「エローヒム」について、ご教示があった内容であっても、これまで、「日本語や英語の聖書と照らし合わせて読んでも、よくわからなかった」と感じられることが多かったかもしれません。
その理由は、
「さらに遡って、ギリシャ語からヘブライ語(ユダヤ人の言語)へと、原典からの翻訳の経緯をたどらないと、言葉の大海の中に意味合い(文脈)が埋もれてしまって、ちんぷんかんぷんになる」ということが起きているからです。
これは、欧米人でも、一部の専門家を除いて、知らない人が大半です。
その意味で、こういう形での「聖書解説」は、日本中どこを探してもないと思います。
(「どこを探しても」という意味は、単に、「翻訳上の問題」を指摘するだけではなく、「教えの中身」の観点を重ね合わせて、旧約聖書の「神の言葉」を分類した研究は、(主のご説法を除けば)無いはずだ」ということです。)

「エローヒム」は固有名詞だった


このテーマを取り上げるに至ったきっかけは、
「御法話『アルファの法』の中で明かされた真実が、当会の霊的な事実として新鮮であっただけでなく、キリスト教世界の中では、
"ドキっとするような驚愕の真実"
を意味したはずだ。」
ということによります。

 先生(主の本体の部分)の過去世の名前が、
「1億5千万年前の"エローヒム"だった」
とありましたね。これは、「聖書の世界」を根底からひっくり返す可能性を秘めた「事実」です。

 日本語の『聖書』を開くと、当然ながら、「神」という言葉が沢山出てきます。英語版では"God"にあたります。その一つ前のギリシャ語聖書でも、それに相当する「神」なる言葉が出てきます。
問題は、ヘブライ語の原典の旧約聖書には、その翻訳する前の元なる「神」のことが、「エローヒム」と書いてあるのです。
これまで多くの聖書学者は、「エローヒムとは、一般的な「神」を意味する「普通名詞」であって、特定の神の名を表した「固有名詞」ではない」
と、一生懸命主張してきました。
というのは、エローヒムや、(その単数形の)「エル」は、ユダヤ民族が戦ったり征服してきた他民族をも指導してきた、普遍的な神だとみなされていたからです。
「普遍的な神様が、民族を超えて、少なくともユダヤ民族を含めた中東全域を指導していた」
ということは、ユダヤ教では認めていません。
一方、考古学や神話学(宗教学)の方では、
「エローヒムとは、どう見ても、特定の個性を持った「固有名詞」だったのではないか」
ということを認めている学者が、結構います。

 たとえば、前回少し触れましたが、ジョージ・ルーカスが映画「スターウォーズ」の脚本を書いた際に影響を与えたと言われている神話学者(宗教学者)に、ジョセフ・キャンベルという人がいますが、この人は、
「エローヒムは、特定の名前を持った固有名詞だ」
という立場を明確に取っています。
ユダヤ教の神学の中でも、そういう立場を取っている人がいるのです。
ユダヤ系フランス人で、インマニュエル・レビナンスという哲学者兼ユダヤ学者がいますが、この人も、
「そもそも、"エローヒム"を始めとして、ヘブライ語における神の名前というのは、「固有名詞」として捉えないと、意味がないのだ。なぜなら、ユダヤの言葉というのは、そうなっているからだ」
とはっきり言っています。
(ちなみに、今回、レビナンスを引用するのに、「マイナーではないか」ということで、少し躊躇(ちゅうちょ)があったのですが、グーグルで"インマニュエル"を検索したら、上から4番目に出てきましたので、結構メジャーだということは知っておいてください。哲学の方では、それなりに有名です。)
凝り固まった、教会系の神学者でないところでは、結構、筋のとおった議論なのです。

 つまり、
「"エローヒム"とは、普通名詞の側面もあるけれども、そもそも、そういう名前を持った特定の神が存在していた。そして、その後もその神様は、ユダヤ民族を含めて天上界から指導をしてきて、現在も存在している。そして、現在の名前をエル・カンターレ"という」
というのが、我々の立場です。そして、この考え方というのは、
「神学上、考古学上も、一定の筋がとおっている」
ということを申し上げているのです。
 『旧約聖書』に出てくる「神」という言葉は、元々、ヘブライ語では、「エローヒム」と書かれています。これが、現在も存在する「固有名詞」の神様だとしたら、本来、「神」という言葉は、「エローヒム」と訳さないといけないでしょう。(現に、そう主張する学者もいます。)
そして、『旧約聖書』の「神」を「エローヒム」に置き換えて読むと、実に驚くべきことを発見します。


創世記第一章は、エローヒムの書


(以下の論考は、当然のことながら、旧約聖書学でいう「エローヒム文献」(エロヒスト)、「ヤーウェ文献」(ヤーウィスト)の議論を踏まえている。但し、それらの文献学の通説と、細部において解釈が違うのは、ハッピーサイエンスの霊査による解釈を加えているからである。講話の中では、各論すぎるので、その点に触れなかったが、レジメ上は、学問上の議論にも耐えられるように、この点を付記しておきたい。)

 聖書の冒頭、「創世記」の一番最初の文章を思い出してみてください。
「In the beginning(原初に),God created the heavens and the earth.(神は天と地を創造し給うた」
この「God(神)」は、ヘブライ語の聖書では、「エローヒム」と書いてあります。ですから、「神」と訳さずに、
「エローヒムは、天と地を創造し給うた」
と訳すべきだと主張する学者もいます。
そうすると、俄然、ハッピーサイエンス的な意味での迫力が変わってきますね。そして、その「エローヒム」が、現代に「エル・カンターレ」として生まれ変わっているのです。海外伝道は、この一行で終わってしまうことになります。
 そのあと、神(エローヒム)は、7日間でいろいろなものを創造されたのですが、まず、神、つまりエローヒムは、「光あれ」とおっしゃった。すると、「光が現れた。」
「地に植物を芽生えさせよ」と、エローヒムが仰ると、「そのようになった。」
「次にエローヒムは、二つの大きな光るものを創られた。大きいほうの光るもの(太陽)には昼をつかさどらせ、小さいほうの光るもの(月)には、夜をつかさどらせた。また星々を創られた」とあります。
これらの文章の主語がエローヒム、つまり、エル・カンターレであると解すると、「大宇宙の創造主」としての真実味を帯びてきます。
更にエローヒムは、動物を創造された後に、
「いよいよ、人間を創造しよう。我々の姿に似せて」
とおっしゃいます。
(ここで「我々」と言っているのは、「エローヒム」が複数形であることに対応しています。エローヒムが「神」であると同時に「神々」(指導霊団)であることが、この一点からも明らかで、「一神教」からは説明のつかない事態なのですが、ユダヤ・キリスト教の神学は、この点について、思考停止に陥っています。
こういう事例は、聖書の到る所に、山のように出てきます。)
そして、
「エローヒムのかたちに人間を創造し、男と女を創造した」と。
(以上は、創世記第一章であるが、ちなみに、同第二章の中で、「男(アダム)の"あばら骨"から女(イブ)を創った」と主張している「神」は、エローヒムではない。結論から言うと、後述するように、それが、ヤーウェである。)
そして、「エローヒムは、彼ら人間を祝福し、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とおっしゃった」とあります。
この表現、『太陽の法』の「人類創造」のくだりのタッチとよく似ていませんか。ヘブライ語までさかのぼって見ると、実はそうなっているのがよくわかります。


エローヒムがモーセに語りかけた部分


その次の「出エジプト記」も重要です。ヘブライ語までさかのぼると、「出エジプト記」のどの部分が、「エローヒムがモーセに語りかけた部分」か、わかります。
ここで引用するのは、モーセがミデアンの地で、父祖の神と出会う瞬間です。
 出エジプト記の第3章を見ると、
「エローヒムは、柴の中からモーセを呼び止めて、エローヒムは、「モーセよ、モーセよ」と仰った。モーセは、「はい、ここにおります」と答えた」
とあります。
「その時に、エローヒムは仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたは靴を脱ぎなさい。あなたの立っている地は、聖なる地である」
「私(エローヒム)は、あなた方の父祖の神、アブラハムの神であるエローヒムであり、イサクの神であるエローヒムであり、ヤコブの神であるエローヒムである」と、語源までさかのぼれば、正確にはそう訳されるべき箇所が出てきます。
それに対してモーセは、
「エローヒムを仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」
とあります。エローヒムは続けて、
「私があなたを、イスラエルの民のところに遣わす」
と言います。するとモーセは、
「彼らに「あなた方の父祖の神が、私をあなた方の下に遣わした」と言えば、彼らは、「その神の名は何ですか」と尋ねるでしょう。私は、何と答えたらいいのでしょうか」
と聞き返します。
ここからが有名なくだりです。
「God said to Moses. "I am Who I am".」
このGodは、エローヒムと置き換えてください。「私は"在りて在るもの"である」と。「このようにイスラエルの民に答えなさい」とモーセに言ったのです。
この部分は、英語版の種類によって、"I am That I am" だったり、"I will be what I will be" だったりします。
これの意味を、ハワイでのご説法『Be Positive』の中で、
「I am the origin of love.(私は愛の根源である)」と仰っています。言葉を換えれば、「世に存在しているものは、全て私から生まれたのである」とおっしゃっていました。
"I am Who I am"の解釈は、いろいろ出ていますが、私の知る中でも、この
『Be Positive』の解釈が、一番わかりやすい説明でした。
 いずれにせよ、ここが、今の西洋文明の一つの出発点なのです。


ヤーウェの「誤訳」は、どこから始まったのか


 次に、旧約聖書には、ヤーウェという神が出てきますが、ユダヤ教徒でそれを「ヤーウェ」と発音する人はいません。「みだりに名前を口にしてはいけない」という戒律があって、通常は、別の名前を代名詞として使っています。
その代理の表現を「アドナイ」と発音します。
その「アドナイ」が、ギリシャ語に訳されたときに、(「代理表現」なので厳かに見えたのか)、「主」という意味のギリシャ語に訳されてしまいました。
従って、英語に訳された時は、"Lord"となり、日本語の聖書では「主」となっています。
「聖書に登場する「主」の語源が、すべて「ヤーウェ」である」
とは言いませんが、少なからぬ部分は、「ヤーウェ」を語源としています。
(もちろん、根本にある原因は、「至高神エローヒムとその他の神霊の区別がつかなかったモーセの悟りの未熟さ」(『黄金の法』第5章)にあるのですが、それが、聖書の上では、そのような翻訳のスタイルとなって、現われてしまったのです。)

 御法話『ヤーウェ、エホバ、アラーの正体を突き止める』によれば、ヤーウェはその後、19世紀の英国保守党の首相ディズレイリーとして生まれ変わりました。イギリスで唯一、ユダヤ人出身で首相になった人で、アフリカの植民地化を強力に推進しました。全知全能の神でも何でもありません。
また、エローヒムによれば、「ヤーウェ自身は、エチオピアかどこかの、エジプトに攻め込まれた地方の、辺境の地の小さな神がその出自であり、現代に例えれば、リビアのカダフィ大佐程度の存在だ」
とのことです。
それが実態なのですが、「主」という言葉が冠せられたために、かなりの混乱が、その後の歴史で生じました。
(「主」とは本来、「創り主」という意味であり、「エル・カンターレ」にこそ、冠せられるべきものです。)
しかし、翻訳上の経緯からいうと、そういう混乱が起きています。「主」の名の下に、ここ三千年ほど、かなり西洋人を惑わせてきたので、「幸福の科学が、ユダヤ・キリスト教の中の「砂金」(エローヒム)と「石」(ヤーウェ)を選り分けなければならない」所以(ゆえん)となっています。
聖書の中で、「主」(Lord)という言葉に出会ったときに、「それがどちらの神のことを言っているのか、内容によって見分けよう」という眼を持つと、「洗脳」がパラパラと、剥がれ落ちるのを感じます。
あるいは、バチカンの麗々たる宮殿も、「音をたてて崩れる」とは言いませんが、
「張り子の虎」に見えてくる感覚に打たれます。
(西方教会(カソリック、プロテスタント等)は、一般に、「エホバ(ヤーウェ)を全知全能の神にしたがる」気が、ややありますのでね、これくらいは言っておいた方が良いと思います(笑)。)


びっくり仰天のヤーウェ発言


 具体的に、ヤーウェ起源のいわゆる「主」の発言を見てみましょう。
ユダヤ民族の始祖はアブラハムですが、「創世記」第12章でアブラハムの前に登場する、いわゆる「主」を、ヤーウェに置き換えて読んでみます。
「ヤーウェは、アブラハムに言った。あなたの周りであなたを祝福する者たちのことは、私も祝福してあげるが、あなたを呪う者がいたら、私もその者を呪ってやる」と。
この発言を白紙の目でご覧になったら、いかがですか。
「四正道」や「許す愛」を学んだ人からみたら、「おかしい」と思うはずですね。「これがイエスの言われる"天なる父"の言葉なのだろうか?」と。
「あなたを迫害する者のためにこそ祈れ」と、「あなたを呪う者をこそ許せ」と、
神ならばおっしゃるはずではないか、と思われると思います。
「許す愛」を説いて、これを修正するためにイエスが降臨された意味がよくわかります。
「これが本当に神様の言葉なのだろうか?」と思っても、
「でも、Lordの名の下に書かれていることだから、神様が呪ってもいいなら、自分達も、呪ってもかまわないのだ」
ということになって、紛争が絶えないわけです。 

 次に、「出エジプト記」の第5章を見てみましょう。
モーセが山でエローヒムに会った後、モーセと兄のアロンはパロ(エジプトの王)に会いに行って、次のように言います。
「ヤーウェはこう言っています。"私の民(イスラエルの民)を自由にして、元に戻しなさい"と」
するとパロは、こう答えます。
「ヤーウェとは誰だ?聞いたことがないね」と。
つまり、超大国エジプトの王から見ると、
「辺境のパレスチナの地の、山の神の名など、知らないよ」
というわけです。
このように、「主」を「ヤーウェ」(辺境の地の山の神)に置き換えると、文章の意味が一変してきます。
その後、第5章以下第12章まで、パロにヤーウェの言うことを聞かせるために、ヤーウェの名の下に行われたことは、
「ナイル川の水を血の色に変えたり」、
「蛙(カエル)を大量発生させて、地を覆ったり」、
「地上の塵(ちり)を大量のブヨに変えて、人間を襲わせたり」、
「アブの大群を家々の中に侵入させたり」、
「人々の皮膚に、膿(うみ)の出る腫れ物をつくったり」、
「農作物の上に雹(ひょう)を降らせたり」、
「イナゴの大群に全土を襲わせたり」、
「エジプト人の全ての初子(ういご)の命を奪ったり」
ということです。
大体このあたりで、人は、旧約聖書が嫌いになってしまうのですね(笑)。
(実際、私の知っている人で、こういうのが原因で、最後まで「洗礼」を受けなかった人がいます。)
「これを誰が命じ、実行させたのか」というのは、実際、日本語或いは英語の聖書だけ読むと、全て「主」が命じたことになっているので、それで混乱してしまうわけです。
しかし、ヘブライ語の原典までさかのぼって紐解いてみると、「アドナイ」と書いてあって、これはヤーウェの「代名詞」のことなのですね。
これがわかると、「なぁ~んだ」と疑問が氷解して、安心します。
これを長らく、「"神"がやったことなのだ」と信じてきた(少なくとも、信じ込もうとしてきた)わけですから、西洋三千年の歴史も、なかなか大変です。


中東紛争の火種となったヤーウェのひと言


 さらに言えば、細かくは詳述しませんけれども、
「あなた方は、私以外の神を信じてはならない」(「出エジプト記第20章)
「あなた方は、偶像を造ってはならない」(同上)
「あなた方の神であるわたしは、妬む神である」(同上)
「だから、わたしを憎む者には、父の咎(とが)を子に報い、三代、四代先まで呪ってやろう」(同上)
という言葉は、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「主」とは言っていますが、すべてヤーウェの言葉であることがわかります。
もう一つ付け加えれば、モーセがシナイ山で「十戒」を授かった有名な場面がありますが、そのとき、なかなかモーセが山から降りて来ないのを見て、
イスラエルの民が、エジプト時代のように、子牛の像をつくって、その周りで踊ったりします。
すると、それを見たモーセは怒り狂って、こう叫びます。
「ヤーウェは、こう仰っている。『おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入り口から入り口へ行き巡って、自分達の兄弟、自分達の友、自分達の隣人を皆殺しにせよ』と」
そして、そのとおり実行したので、一晩で三千人が虐殺されたと、「出エジプト記」第32章には書いてあります。しかし、真実を言えば、天地創造の神が、そんな「異常性のある行動」を命じるはずもなく、ヘブライ語の聖書までさかのぼれば、それはヤーウェの命令であり、エローヒムではなかったことが記されています。

 さらに、「創世記」第12章の以下の言葉に戻ってみましょう。
元々アブラハムの一族は、メソポタミア(今のイラク方面)の一地方に住んでいたのですが、ヤーウェは、アブラハムに向って、
「あなたの生まれ故郷を出て、わたしが指し示す土地へ行きなさい」
と命じ、カナン(今のイスラエル)の地に向かわせます。そして、アブラハムが一族と共に、カナンの地に入ったとき、再びヤーウェが現れて、
「あなたの子孫に、わたしはこの土地を与える」
と言いました。これが今の「中東紛争」の起源です。
第二次世界大戦後、英米の後ろ盾を得て、世界中のユダヤ人が移植してきて、イスラエルの地に建国したとき、この「創世記」第12章のヤーウェの言葉が根拠とされました。
「四千年近く前の言葉が根拠にされる」というのも、すごい話ですが、いずれにせよ、イスラエルという国は、これを根拠にして建国されました。
その土地には、ユダヤ人もいましたが、アラブ人(パレスチナ人)が沢山住んでいました。したがって、追い出された人もいるわけですが、「神のくださった約束だから」ということで、それが「正当化」されているのです。
しかし、その神も、「主」とは表現されていますが、ヘブライ語の原典までさかのぼれば、「ヤーウェ」です。「エローヒム」ではありません。
この二つが「旧約聖書」の中で混在していることが、問題なのです。
(もちろん断っておきますが、この議論を通じて、イスラム教の側に立っているのではありません。レジメ校正中に、オサマ・ビン・ラディンが米軍の急襲で殺害されたニュースが入ってきましたが、イスラム教サイドの問題点については、機会を改めて触れたいと思います。)


「イザヤ書」の秘密を解く


 今年1月16日の「『救世の法』講義」の後半部分で、新しい論点のお話がありました。その中で、
『今日講演するにあたって、昨日いくつかの世界宗教のルーツの霊査に入りました。一神教のユダヤ教から調べに入りました。最初の頃のユダヤ民族の預言者には、モーセもそうなのですが、ヤーウェを信仰する一神教が頻繁に出てくるのですが、しかし、別の神の名前も出てきます』
と仰っしゃりながら、ここで新しく、旧約聖書の「イザヤ書」の話をされています。
「イザヤ書」には、第一イザヤ、第二イザヤという人が登場してきて(第三イザヤがいるという説もある)、この第二イザヤが、昔のリーディングでいうと、西郷隆盛なのですが、
『この第一イザヤ、第二イザヤから、神の名前を「エローヒム」と呼んでいます』
と、そこで仰っています。
『そのエローヒムが、イザヤの前に現れた理由は、その数百年後、イエスが降臨することになっていたので、その準備のためでした』
とありました。
ところで、この先生の御言葉は、日本語の聖書を読んでも、当然のことながら、わかりません。
また、英語版の聖書で読んでも、これまで、「創世記」や「出エジプト記」を分析してきた手法では、手がかりがつかめないのです。
これをどう解読したらよいのか。
主のおっしゃった、
「イエスの降臨を準備するため」
という言葉をヒントにして、以下で解明してみましょう。

「イザヤ書」に登場するもう一つの「主」


 イザヤ書は、第39章までが第一イザヤによるもので、第40章以降後半が、第二イザヤによるものとされています。
皆さんもよく、
「イエスが生誕することは、旧約聖書の中で予言されていた」
と聞かれたと思いますが、それが一番明確に書かれているのが、「イザヤ書」第7章なのです。
大抵の英語版聖書は、「主」をすべて、大文字で"The LORD"と表記します。ところが、プロテスタント福音派系の聖書では、「主」のことを、"The LORD"
と、一部ですが、"the Lord"に、書き分けて表現しています。
これは、前者がヤーウェ(アドナイ)に起源を持つ「主」であるのに対し、後者がヤーウェに起源を持たない「主」(つまり「エローヒム」起源の「主」)であることを分かるようにするために、わざわざ、そのように表記しているのです。
そして、その"ヤーウェに起源を持たない「主」"が、「イザヤ書」第7章の「イエス生誕の予言の箇所」になって、突然、登場するのですね。
 私も今日は、その聖書を持ってきています。日本語版では、全て「主」になっていますが、英語版の聖書には、一部、そのように書き分けてをしているものがあります。
つまり、イエスの生誕を予言した「主」の表記だけが、他とは違うのです。これは、語源までさかのぼってみないと、本当にわかりません。先生は、このことを仰っていたのです。
ここで、「イザヤ書」第7章13節からのくだりで、この「主」を「エローヒム」に置き換えて読んでみましょう。

「あなた方は、エローヒムのことを煩わせるでない。それゆえ、エローヒム自らが、あなた方に一つの「しるし」を与えるであろう。
見よ、処女が身ごもっている。そして、その処女は男の子を産み、「インマヌエル」と名づけるであろう。
その子は、凝乳(ぎょうにゅう)と蜂蜜(はちみつ)を食べて育ち、やがて十分な知恵を得て、悪を退け、善を選び取るようになるであろう」

 この予言をしている「主」のみが、表記が違っており、「ヤーウェ」を意味していないのですね。
さらに先生は、
『第二イザヤのところにも、エローヒムが現れた』
と仰っていました。
これを探ってみますと、「イザヤ書」第45章のところで、実に興味深い表現が出てまいります。
読んでいるだけで、ゾクゾクしてくるくらい面白いのですが、(講話の中では仮説的に発表もしたのですが)、ここではグッとこらえて、もう一段証拠固めをして、
ヘラトリ英語版で発表するときに、併せて、日本語版の方に加筆させていただきたいと思います。

 以上、結論を4点にまとめてみると、
(1)エローヒムは、特定の名前を持った「固有名詞」でもあったのだということ。
だから、旧約聖書は、「エローヒム」という名前を持った神(至高神)の物語だった。
(2)ヤーウェを"主"と「誤訳」したために、様々な混乱が生じたが、語源までさかのぼって、ヤーウェ起源の「主」を特定すると、世界宗教、普遍的宗教にふさわしくない「神の言動」を選りわけることができ、キリスト教、イスラム教との共通性、一貫性を見出すことができるようになるので、「宗教紛争」を乗り越えることができる。
(3)そこから必然的に出てくる結論として、新約聖書の「イエスの父」=「愛の神」はエローヒムである。キリスト教会の一部に、新約・旧約を貫く「全知全能の神」を「エホバ(ヤーウェ)」に特定したがる傾向があるが、これは誤りである。
ヤーウェの正体は、パレスチナの山の神(怒りっぽい神)であり、これと至高神(普遍神)エローヒムをモーセが混同してしまったことが、中東の紛争(悲劇)の淵源である。
(4)したがって、イスラム教のアラーも、エローヒムのことである。
このことは、旧約と新約の神を(アラーとして)認めているイスラム教の穏健派(正統派)にとっては、別に不思議なことでも何でもない。
「イエスは救世主でなく、預言者であった」と、彼らは言っているだけで、
「イエスに臨んだ神とムハンマドに臨んだ神が同じである」(アラーでありエローヒムである)
ことに、別に彼らは異存はないのである。
実はこれが、イスラム教国で、密かにハッピーサイエンスの信者が増えている理由である。
「エル・カンターレとは、イエスの父のことなのだ」
で、彼らは十分納得する素地を持っている。
(ちなみに、穏健派イスラム教は、聖書の神を「アラー」と表記している。アラー=エローヒムであれば、これは間違いではない。)
お互いに、意外と近い距離にいるのである。偏見を持っているのは、むしろ、我々の方かもしれない。

 ですから、頑張りましょう。世界に真の平和をもたらすことができるのは、我々なのですから。

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